年度末の納品三昧もある程度落ち着いてきました。
通常の外商メンバーでなんとかなりつつあり
金曜日の3月15日は、午後から長男と現地合流で茨城県取手市に
亡き義父の墓参りと施設に入っている義母に会いに行きました。
長男は今年大学を卒業して、春から就職して北海道に赴任する事となり
しばらくは直ぐに帰って来れないだろうからと言う事で、行って来ました。
亡き妻の父は、平成7年3月15日に亡くなりました。
私と妻の結婚式のちょうど一ヶ月前でした。
亡き義父は山形県酒田市の大地主の三男で、今生きていれば104歳
亡き妻は晩年の子で、亡き義父は戦争に行っているのです。
終戦間際招集されて、ソ連国境の満州の独立歩兵大隊に配属されたそうです。
当時の日本軍の各部隊は、旭川第⚪︎⚪︎連隊と言うふうに、郷土ごとに編成されていました為
部隊が全滅するとその地方の出征家族に知れ渡ってしまいます。
なので国境守備の独立部隊には、いつ全滅してもいいように全国各地から招集されていたそうです。
そして終戦時にソ連が不可侵条約を破り、満州国境に戦車部隊で押し寄せたそうです。
まともな対戦車兵器も無く、爆薬を担ぎながら、敵の戦車の下方に突っ込んでいったそうです。
平成7年、私は内田洋行と言うスチーム家具のメーカーで働いておりましたが
婚約者の父の病棟によく呼ばれ
幹雄くんなら分かるからと、戦争の時の事をよく亡き義父から聞かされました。
最期にうなされていても、「戦車が戦車が」とうなされていました。
同僚と戦車に爆薬を持って突撃した際に撃たれて負傷し
ソ連の捕虜となり、シベリアに抑留されて帰国すると
自分は死んだことになっており
様々なことがあり郷里山形を離れ、千葉県で働くことになったそうです。
そうです。平成7年3月15日、深夜に病院に呼び出され、最期を看取ったのでした。
そして朝までに、翌日の通夜、葬儀の手配をお兄さんとしていた為
翌日の仕事は急遽お休み頂いたのですが
その日の仕事と言うのが、一年越しのビジネスホテルの新設物件で、
そこに支配人とは、連日深夜に打ち合わせをして、当時、私の家と支配人のが来たんだったこともあり、深夜に車で送っていた。そういう仲でした。
そんなこともあり、当日納品に立ち会えない私を不思議に思っていたらしく、
会社にクレームの電話もあったそうです。
私じゃないと解決できないということで、現場に向かい
婚約者の父が亡くなり今夜お通夜で準備をしていたと言うと
それはすまなかった。すぐに葬儀場に行くように言われました。
我々の業界では、3月は年度末ということで本当に多忙なのですが、
この時の事はよく覚えております。
死ぬ間際に戦友の事や戦争のことを、後世に伝えてほしいと言う気持ちがよくわかりました。
そんな亡き義父の墓参りを終え
義母に会いに行きました。
義母派先日93歳の誕生日を迎えています。