歴史研究家になりたいグウタラ願望の社長のブログ

文具・事務用品・OA機器・スチール家具などを扱う、株式会社マルハチの社長、八木幹雄のブログ。

地位が増せば堪忍が必要!

ここのところ、

「八木さん少しは休んでくださいね!」

と言う言葉を方々から聞きます。

皆さんご心配ありがとうございます。

昨日10日の日曜日は、久しぶりに遅くまで寝ていて

起きてから洗濯や料理、掃除と言った家事をしました。

そして、午後は久しぶりにリフレッシュの為、本来の私の顔になりました。

歴史探求の旅です。

12月も中ごろ、赤穂浪士討ち入りに関して小さな旅に出ました。

まずは、13時から両国、本所の吉良邸跡に行きました。

おりしも元禄市をやっていました。

実は江戸城本丸にある松の廊下から行こうかとも思いましたが

江戸城は何度となく行ってますからもういいか・・・・

吉良邸は初めてだから現場をしっかり見ておこうと思い立ちまして

現在あるこの公園は討ち入り当時の八十六分の一の大きさしかなく、見取り図を見るとそのお祭りでにぎわう通り全体が屋敷跡でした。

この辺りは、おもちゃ問屋や衣服問屋が多いらしく、それら地元業のブースでにぎわっていました。

また、太鼓の演舞も有り、多くの人がその音色に魅了されていました。

しかしながら、私の探していた表札に目を向ける人は、ほとんどいませんでした。

吉良邸の表門跡はかつて、長屋門が有った場所

裏門の表札も見つけ、屋敷全体の大きさがわかり

以前、本で見つけた屋敷内の鳥観図から

この辺りで、誰と誰が戦ったとか様々な想像が出来ました。

そんな中見つけたのが吉良家家臣で亡くなった方達の碑です。

討ち入りと言うと

歌舞伎等の演目では、赤穂浪士を義士として描いていますが

夜明け前に突然寝込みを襲われ、犠牲になった20人ほどの吉良家家臣

主君に対する遺恨が有ったとはいえ、鎖帷子に槍、弓矢も持った重武装集団に押し入られ

寝巻に脇差で応戦したわけですから、ワンサイドゲームだったわけです。

見方を替えれば、吉良家の家臣たちは被害者ですよね!

赤穂浪士前原伊助が情報収集の為にやっていた米屋などは

裏門の真横に有りました。これじゃ吉良邸の情報は筒抜けです。

しっかりここまでマークされていて、万事手はずを整えたテロリスト集団と言われても赤穂浪士は仕方ないですよね。

そして、私はと言うと15時からは吉良の首を主君浅野内匠頭の墓前に供え、四十七士が眠る品川泉岳寺へ移動です。

大石内蔵助の像が有りました。

私が小学校の時に読んだ赤穂義士の本の中にあった、

大石内蔵助山鹿素行流の兵法は今も私の戦術の基本になっています。

赤穂四十七士の墓に行く前、手前の資料館に入りました。

歌舞伎等での演出ではなく、歴史書通りに

消防装束や各浪士の具足、武器等が有りました。

その中に吉良上野介に一番槍を突けた間十次郎の槍が有りまして

その横に彼の木刀も有りました。

この木刀に書かれていたのは、

「人を殺したら死なねばなりません」という言葉でした。

先ほど、四十七士を見方を替えれば、テロリストとも言いましたが

彼らも自分達が切腹して死なねばならないと言う事を、熟知していたのかもしれません。

泉岳寺の境内には、

一本の梅の木が有りまして

大石内蔵助の息子の 大石主税切腹した松平隠岐守の屋敷に植えられていた梅だそうです。

家老の息子とは言え、享年16歳での切腹です。

16歳と言うと私の末っ子次男がその歳

まだまだ未来ある若者が、主君にまだ使えてもいない部屋住みの身分です。

襲撃された側も、襲撃した側も幸せではないですね。

どうしても歌舞伎など、後世の脚色や、感情が先立つところですが

こう考えると

この赤穂事件のすべての元凶は何なのか?

仇討ちと言っても、そもそも仇討ちとは

親兄弟を殺された子や親類が、殺した加害者を「仇」として討つ事です。

松の廊下で切りつけた加害者は浅野内匠頭で、吉良上野介は被害者です。

その前に何かあったとしても、

「加害者浅野内匠頭、被害者吉良上野介」という事は事実!

すなわち、仇討ちの構図が成り立たないのです。

喧嘩両成敗にせず、浅野内匠頭に即日切腹を申し付けたのは「幕府」であり

本来の「仇」は、「幕府」です。

てっ事は現代風に言えば お門違いの逆恨みに 周りが引っ掻き回された感じ!

とどのつまり、全ての元凶は、

浅野内匠頭の堪忍が足りなかったと言う事

実は、江戸時代当時の幕府記録書には、浅野内匠頭は武道にはたけているが短気で危ういとか、女好きで家老が政治を仕切っており今後大丈夫か?などと書かれていたりするんですよね!

吉良とは年老いた指導役ですので、その年長者の指導に対して逆ギレした結果が

お家おとりつぶし、多くの家臣とその家族を路頭に迷わすことになり

吉良邸に討ちいらせて、多くの死傷者を出し、その家臣たちを切腹に追いやってしまった訳です。

一時の感情で切れちゃいけませんよね!

特に地位が高くなればなるほど、その行為が多くの人を不幸にします。

最近、町会長も担う事になり、一段と責任が重くなってきた私

歴史は応用してなんぼです。

自分自身、堪忍を怠らず、背負う人たちへの責任において行動していこうと、改めて感じた次第です。