歴史研究家になりたいグウタラ願望の社長のブログ

文具・事務用品・OA機器・スチール家具などを扱う、株式会社マルハチの社長、八木幹雄のブログ。

毛利庭園

本日2回目の更新です。

仕事に夢中で、目らしく、ついついブログ更新の事を忘れてました。(笑)

さて、昨日の文具チェーンの初春懇談会で六本木に行って参りましたが

15時開演のところ、30分前にはついてまして

この時間を使い、周辺を散策しました。

昨年もこの六本木のグランドハイアット東京にてこの懇談会が開催されましたが

六本木ヒルズは確かに近代的できれいなビルです。



ここには、六本木ヒルズと一緒にテレビ朝日の本社が有ります。

地方から来ている人も多いのですが

皆、お目当ては、ヒルズのショッピングモールとテレ朝のショップ

そんな中、私が向かったのが「毛利庭園」でした。

よくテレビ朝日のニュース番組のお天気予報で出てくる庭園です。

ヒルズ側から見下ろすと



都会の中のオアシス的存在です。



その先には東京タワーも見えます。



ヒルズのくねくねした階段は、まるで城の防御階段のようですが

ここを下っていきますと、庭園にたどり着きます。



日本式の池のある庭園が広がります。

昨日日中は暖かく、ポカポカ陽気だったこともあり

修学旅行生や、就職活動中の学生たちが庭園で日向ぼっこをしてましたね!





庭園を歩くと、「毛利甲斐守の屋敷跡」と表示がありました。

ここは、長門の国、長府藩上屋敷後なのです。

赤穂浪士の討ち入り後、浪士10人をこの屋敷で預かっていた事が

書いてありました。


毛利と言えば、幕末の長州藩だと思われますが

実は、その支藩なのです。

初代藩主の毛利秀元について書いてみたいと思います。



毛利家というと「三本の矢」が有名ですよね!

中国地方の戦国大名毛利元就

三人の息子を前に、それぞれに矢を持たせて

折らせた所、矢は簡単に折れましたが

矢を3本まとめて束にして折らせると

なかなか折れません。

この例を出し、兄弟がいがみ合うことなく

協力し、毛利家を盛り立てていくようにせよ

という教えです。

この教えを守り

長男の毛利隆元を中心に

次男の吉川元春、三男の小早川隆景

が、毛利家を支える二本の川、「毛利両川体制」を確立して

戦国の世を生き抜いたのです。

しかし、毛利元就にはまだ四男がいまして

その四男の穂井田元清の息子が「毛利秀元」です。

毛利本家の毛利隆元は早くに病死してしまい

その息子である毛利輝元(元就の孫)が戦国末期の毛利家の当主でした。

伯父にあたる吉川元春小早川隆景に守られ

羽柴秀吉(後の豊臣秀)の中国征伐にも耐えていました。

そして、毛利輝元は秀吉の死後の五大老のひとりとなりましたが

その頃は、2人の伯父は死んでおり

子どももいなかったので、「毛利秀元」を養子と向かえ

朝鮮の役の際も毛利勢の指揮は秀元がとっていました。

関が原の合戦では、有名な「宰相殿の空弁当」と言って

「兵に弁当をとらす」と言う言い訳で戦場に出ませんでした。

結果、毛利軍が動かない事が東軍が勝利する一因にもなりました。

当初、秀元は毛利が西軍に加担する事に反対でしたが

大阪に戻ってからは徹底交戦の構えを見せました。

このあたりは、よく判らないのですが

結果、120万石の毛利家はわずか30万石に減らされてしまいます。

しかし、最終的には生き残ったのですから

さすが毛利家です。

その際に長府(今の下関)を本拠とする支藩の藩主として

秀元は3万6200石の大名となるのです。

関が原の際の対応など見ると

毛利秀元とは、出来通いのか分からないかもしれませんが

私は、他の戦歴やその後の毛利と徳川の交渉役などの実績を見ると

毛利家の中では、相当出来の良い人物だと評価しています。

多分、仲が悪いように見せながらも死んだ吉川元春小早川隆景

の様に 吉川広家と毛利を生き残らせる為の芝居を打っていたのでは

無いでしょうか?(関が原の合戦時の対応とその後の長府、岩国両支藩体制)

そんな秀元から三代目の藩主「毛利甲斐守綱元」の時の

赤穂浪士お預かりが有名になってますが

私にとっては、秀元のほうが印象深い人物なのでした。



秀元の屋敷の庭園は近代的な中にある都会のオアシスになってますが

皆そんな過去の事など知る由も無いのでしょうが

私には、歴史を探索する良い機会でした。

わずか15分ですが

その15分は私の生きがいですね!