歴史研究家になりたいグウタラ願望の社長のブログ

文具・事務用品・OA機器・スチール家具などを扱う、株式会社マルハチの社長、八木幹雄のブログ。

私がポジティブな原点2

本日3回目の更新です。

引き続き 何故私がポジティブかの原点を今日は書いてます。

みんなの笑顔の為に泣かない事を誓った日々の事です。

長文になりそうなので、何回かに分けての更新ですので

ここから見た方は、前の記事をお読みください。


5歳の夏前に起きた様々な出来事の為

体調を壊し、小児科に行くと「赤痢」と診断されました。

赤痢といいますと、隔離病棟での隔離が必要になります。

小児科に救急車が横付けされ、乗り込むとまず自分の家まで来ました。

一緒に乗っていた母親が降りて、家中消毒をされたそうです。

まだ、産まれたばかりの妹などは、昼寝中にカバーをかけられて周りを消毒したそうです。

5歳の私にもこの事態が大変なのだという事は直ぐにわかりました。

悪くすれば、会社も営業を停止しなければなりません。

自分は、これからどうなってしまうのだろうという不安がたぎりました。

そして、まんじ病院(漢字がわかりません)という病院までの搬送中

交差点ごとに、

「救急車が通ります道を空けてください。」とのアナウンスと

赤信号でも他の車が道を譲る光景に、不安は一層募りました。

そして、私は、完全隔離の病棟に入院させられました。

初日の夜は、ベットの布団の中でシクシク泣いていたのを覚えてます。

ここは、付き添いの許されない病棟でしたので

5歳の子が1人で過ごすには寂しすぎました。

また、私が入ったのは6人の大部屋でしたが、

私の他の5人は、父親、母親、子ども3人の親子でした。

2日目から、この親子が寂しそうな私に大変気を使ってくれましたので

子どもながらに、泣いちゃいけない!笑顔でいようと

懸命に涙をこらえ、笑顔を見せてました。

看護婦さんたちの気遣いやらも、大変嬉しく思いました。

絶対に泣かないんだ!

そしてこの頃、検査の結果が出て、

私は、本当は「赤痢」ではない事がわかりました。

大腸が炎症していて赤痢に近い症状だったのでした。

でも、一度赤痢患者の病棟に入って生活した私は、

一週間この病棟での生活を余儀なくされたのでした。

周りの親子の患者は、もう何ヶ月も入院生活を送ってましたので

その事からすると、私は幸運でした。

でも、他の家族の中にポツリと入っているのは、すごく辛い事でした。

隔離病棟ですので、面会時間も限られてますし

面会時も白衣、マスク着用が義務付けられています。

こんな時に、ちょうど病室に1つしかないテレビで見たアニメが

みなしごハッチ」で一人ぼっちの私には至極過酷でしたが

人前で涙は見せない!と誓い我慢してました。

しかし、2日目の夜、その我慢の細い糸が切れる出来事がありました。

祖母からの電話でした。

看護婦さんに呼ばれ、公衆電話の受話器をとると

祖母の声がしました。

「幹雄?1人でかわいそうにね!寂しくない?寂しくない?」

祖母は祖母なりに私を気遣って電話してきていたのでしょうが

その時の私のこころ内は寂しくない訳ないです。

ひとり、何も答えられず無言のまま、泣きだしてました。

その後、看護婦さんに私は収容され部屋に戻り

かわいそうな祖母には、看護婦さんから厳重注意が飛び

電話の取次ぎはしてもらえなくなったそうです。

しかし、人前で泣いたのは、この時が最後でした。

絶対に泣くまい!笑って過ごしてやる!

そう心に思ったのはこの事件の後からでした。




続く・・・・・・・・・・・・・・・・