歴史研究家になりたいグウタラ願望の社長のブログ

文具・事務用品・OA機器・スチール家具などを扱う、株式会社マルハチの社長、八木幹雄のブログ。

3人の家忠

本日4回目の更新です。

久しぶりに歴史のお話を・・・・

徳川家康の家臣で、「松平家忠」という者がおりますが

なんと、同時期に この「松平家忠」は3人存在します。(笑)

以前書きましたが、徳川家康の元の名は「松平元康」

三河の国(現在の愛知県東部)の武士の家柄ですが

元は乞食の親子が、数代を経てこの一帯の武士の一族となったもの

その為、松平一族は18家あります。

詳しくは、以前書いた→ 18松平 を参照ください。


先日関ヶ原の合戦直前に伏見城で戦死した松平家忠の話を書きましたが

その家忠は 深溝の「松平 又八郎(主殿助) 家忠」

このほかに、東条の「松平 甚太郎 家忠」

そして、家康の従兄弟にあたる形原の「松平 又七郎 家忠」

の3人です。

家康の従兄弟の又七郎家忠が一番年上で

3人の中では、別格扱いだったはずですが

深溝の又八郎家忠と、東条の甚太郎家忠は

領地が隣接していることもあり

周りの人間は、紛らわしかったのではないかと思います。

さらに、この二人は仲が良く

同じ戦場に配置されることも多かったようです。

途中、甚太郎家忠は病弱で、病死し

後継者が無かった事から、家康の4男の忠吉を跡継ぎとするのですが

徳川家が関東に移封直後は、忠吉が幼少の為

じっこんの又八郎家忠が、忠吉の代わりに、忍城を預かっていたようです。


3人の家忠の中で、歴史的にもっとも有名なのは

深溝(ふこうぞ)の 松平又八郎家忠です。

先日紹介した伏見城での戦死の話も有名ですが

なんといっても

長篠の戦のあった1575年から1594年までの17年間

家忠日記」という日記をつけていまして

当時の武士の毎日の様子が克明に記録されているのです。

私のブログと一緒ですね!

当時、こんなに克明に日常を記録した武士がいなかった為

大変貴重な歴史的書物となっているのです。

この松平又八郎家忠については、

また今度、書こうと思います。