歴史研究家になりたいグウタラ願望の社長のブログ

文具・事務用品・OA機器・スチール家具などを扱う、株式会社マルハチの社長、八木幹雄のブログ。

お上人さんへ

先週、レインボーマンの記事を書きましたね!

虫の知らせとはあるものですね!一昨日そのお上人さんが、お亡くなりになりました。

私が子どもの頃、いつもお盆に来てくれていたお坊さんは

池上本門寺の照栄院のご住職の田中さんでした。

その後、田中さんは本門寺内で出世し、

第81代貫首に推されました。この時、古例にならい、

日淳と改名しました。平成7年には、第48代日蓮宗管長となりました。



私は小さい時に、この方にお経の中に出てくる一文

「阿耨多羅三藐三菩提。(あのくたら さんみゃく さんぼだい)」

これってどういう意味ですか?と質問して

以来、「阿耨多羅三藐三菩提の息子さん」と呼ばれていました。

詳しくは↓をクリックしてください。

お盆のお話
レインボーマンのお話
その田中お上人さんのお話を、つい思い出して先週書きましたが

そのお上人さんが、18日(日)に96歳でお亡くなりになりました。

本日、明日でお通夜、告別式だそうです。

虫の知らせでしょうか?先週是非またお会いしてお話を・・・・と思っていたのですが。

本日は私の中のお上人さんについて書きます。

田中さんは、大正3年3月17日、北海道江差の近く、現在の乙部町元和で生まれました。

父親は漁師でした。母親は大変信仰深い方で、その願いで、小学校2年の時、近くの本昭寺浅野本淳師に預けられました。

やがて、浅野師より本隆の僧名を授けられ、得度しました。

昭和4年、15歳、上京して、池上本門寺に入り、修行のかたわら池上学林に学び、やがて立正大学の仏教学部に進みました。

当時、本門寺の修行僧は、大学に通えませんでしたので、塔頭の照栄院に移り、大学に通いました。

照栄院住職の石川日教上人は、その時、池上本門寺の監督でした。日教上人は、乙部の浅野上人の願いを入れて、田中上人を自分の弟子としました。

その後、昭和15年、大学を卒業して、一時、故郷に帰っている時、召集令状を受け、旭川の26連隊に入営しました。

間もなく、満州の最前線、二人班に配属され、ここで、幹部候補生に選ばれて、昭和16年9月、仙台の予備士官学校に入学しました。

12月8日、対米戦争がはじまり、17年3月に卒業して、見習士官となると、航空兵に転科を命ぜられ、兵庫県加古川で訓練のち、シンガポールにあった、第三航空軍司令部勤務となりました。

終戦シンガポールで迎え、部下の復員に奔走している時、司令部に要請され、チャンギー刑務所の教誨師となりました。

ここで、BC級戦争犯罪人として処刑されようとしていた日本軍の将兵軍属の最期をみとりました。

この時、英軍により焼却処分にされそうになった遺書を命懸けで持ち出し、帰国後、遺族に渡すことができました。

この時のお話は、何冊かの本に書かれていまして

その後、英語の教師を経て本門寺の第81代貫首になるまでの



 (照栄院HPより参照)

この写真の頃に、私は、「阿耨多羅三藐三菩提の息子さん」として出会ったのです。

チャンギーのBC級戦争犯罪人の最期を看取る僧として生きた田中さんに

私はレインボーマンの変身の呪文を何気なく聞いたのですが

今調べると、レインボーマンの敵「死ね死ね団」は第二次大戦で日本軍に家族を殺され虐待された諸外国の人たちが

日本を憎み、日本を地図から消し去る為に日本をテロ攻撃してくるのですが

その敵と戦い、人間愛の為に戦うのがレインボーマンなのです。

BC級戦犯を処刑するイギリスに焼却処分される遺書を命懸けで持ち出し、家族に渡す。

これこそ、人間愛なのかもしれません。

深い縁を感じました。

そして、私が幼少時にたずねた変身の呪文「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら さんみゃく さんぼだい)」の意味は

最高の正しい悟り の意味だったそうです。

人類が皆、この「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら さんみゃく さんぼだい)」を悟っていれば

無益な争いはしないのだろうに・・・・・

私もお上人さんの様に人類愛に生きていこう思います。

今後、苦しい時やら、納得がいかない時も

この呪文を3回心の中で唱えましょう!


お上人さんありがとうございました。

安らかにお眠りください。