久しぶりに時間があるので
歴史書に埋もれた本来の自分に戻りつつある。
そんな中で、以前から疑問だった徳川家康の某家臣について調べた
それは本多信俊についてである。
本多性の家康家臣と言えば
四天王の一人、本多平八郎忠勝の家系が有名で
次に、参謀役の、本多正信、正純親子の家系
日本一短い手紙「一筆計上、火の用心お仙泣かすな、馬肥やせ」の鬼作左こと 本多作左衛門重次の家系
徳川家で初めて城持ちとされた田原城の 本多豊後守広季の家系
伊奈城主の本多忠次の家系
は知っていたが最近、本多百助なる人物の存在を知った
と言うわけで今回は徹底的に調べてみた
武田滅亡後、武田家の旧領甲斐を織田家家臣川尻肥前が治めていたが
本能寺の変後、川尻に家康が送った使者の本多百助信俊が殺された。
と言うくだりから彼の存在を知るのだが
徳川実紀などには、相当な手練れともあるし
500もの兵を任されていた記述も出てくる。
一宮城の後詰めのお話も初めて知れた。
徳川家康について相当知識があるつもりだったが、
まだまだ、知らない事は多々あることがよくわかった。
もっともっと知りたい学びたい
そんなことを思う今日この頃です。