本日6回目の更新です。
今日は、前の記事の翌日である
歩き始めてから 10日目の事まで書きます。
この日も朝から雨模様でしたが
大須賀町を私は、出発しまし
前の記事でも紹介した、高天神城に向かいました。
徳川方のこの城は、長篠の合戦前に
信玄の子武田勝頼が
最初に攻略した城です。
家康はこの時、織田の援軍を待ちましたが
その到着を待たずして、高天神城は降伏したのでした。
この時、城将小笠原氏は、武田家に臣従を誓い、
ともに籠城していた大須賀康高などは逃がされて浜松まで落ち延びました。
しかし、家康の家臣の大河内政局は
家康の軍目付として参戦していたので
落城の際捕らわれ、家康が城を奪還するまで節を曲げずに長い間土牢に入れられていました。
その土牢が↓こちら
長篠の合戦後、家康が高天神城を奪還するまでの7年間
この土牢で過ごし、家康に救出されるのです。
高天神城は、小高い山城です。
この頂上付近の曲郭からの眺めは良いもので
この時ばかりは、雨が上がってくれました。
この旅で、多くの人質やらを殺してきた武田勝頼に対し
家康は、敗北させた武将たちを助けてきた話があったと思いますが
「人は活かしてこそ人の道」という家康が
唯一、敗北した武将に切腹を命じたのは、この城を奪回した時でした。
勝頼からの援軍がないまま、
城代岡部元信以下そのことごとくが討死して高天神城は陥落したのですが
わずかに生き残った城兵は助命されたのに、
武者奉行孕石元泰のみが切腹させられます。
これは、徳川家康が今川氏の人質であった時代に、当時隣の居屋敷に住んでいた孕石が人質であった家康
に相当辛く当たったらしいのです。
司馬遼太郎さんによれば家康は元来このような旧恨をもって後に復讐するようなことは殆ど行ったことはなく、
余程孕石に相当の恨みを抱いていたのでしょう!
ともかく、この高天神城を後にして一路、掛川城に向かうのです。
つづく