歴史研究家になりたいグウタラ願望の社長のブログ

文具・事務用品・OA機器・スチール家具などを扱う、株式会社マルハチの社長、八木幹雄のブログ。

第52話 三方が原

本日4回目の更新です。

大学時代の心に残るチャレンジの旅を書いてます。

本日は、この旅の歩き始めて8日目の出来事です。



この時私の心の中には

辛い、痛い、孤独、寂しい、止めよう

と言ったマイナスイメージの言葉は全く消え去っていました。

すべてを超越して、ただ歩くのみでした。


向かう浜松城は、家康の岡崎城の次の居城です。


その前に、三方が原台地がありまして

ここは、家康が唯一の負け戦となった「三方が原の古戦場」でした。



この辺りは、一面の雑木林でしたが

この台地で多くの徳川家臣団が眠っていると思うと

自然に涙がこみ上げてきました。

この旅で、当時の人たちの苦労を知れば知るほど涙もろくなります。


武田信玄に対して、織田の援兵を加えても

半分の戦力で戦った訳ですが

完膚なきまでに叩きのめされていまして

最後は、家康自身がやりをふるって戦う始末

もはや、組織的な戦闘はできません。

この敗走の際に多くの家臣が討ち死にしています。


夏目吉信という武将は、浜松城留守居でしたが

家康の負け戦を聞くや

わずかな手勢と共に駆けつけ家康に退却するよう進言しますが

家康は聞かず、

「ここで自分一人生き残る事はできない」

と討死覚悟で追手に向かおうとする有様でした。

吉信は家康を睨みつけ

「そのような心根は、まるで木端武者ではありませぬか」

「これからはそれがしがお館を名乗りまする」

と言うやいなや、家康の馬の首を浜松城の方に向け、馬の尻を槍で突き

家康を乗せた馬が浜松城目がけて一目散に駆け去るのを見届けると

「我こそは徳川三河守家康なり、我と思う者は参るがよい」

と大音声で呼ばわり、槍を振るって瞬く間に2騎を突き落とし

引き連れてきたわずかな手勢と共に追手に向かって斬り込んでいきました。


家康が命からがら、浜松城の城門をくぐった時

夏目吉信は既にこの世の人ではありませんでした。



しかし吉信は幸せだったに違いありません。

と言うのも、彼は三河一向一揆の際に家康に反抗し

負けましたが、家康は吉信はじめ歯向かった家臣たちを皆許します。

まさか助けてもらえるなど思ってもみなかった吉信は

岡崎に向かって平伏して家康を裏切ったことを恥じたそうです。

それからの彼は、よく仏堂に入っては、私を主君のお役に立たせたまえ、と大声
で祈ったそうである。

こうした恩があったからこそ、家康が三方ヶ原で窮地に陥った
時に、吉信は家康を守って死んだのです。

まさかこの時の彼には、自分の守った主君が天下をとり

260年もの平和な時代を築くとは思っていなかったでしょうが・・・・・

家康の「人は活かしてこそ人の道」の精神は

家康と多くの家臣団との絆を作り上げていったのです。




ちなみに、皆さんがご存知の夏目漱石は、

この夏目吉信の子孫です。



私は夏目吉信、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、

先の二俣城の戦いの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治など

多くの三河武士たちが眠る三方が原を涙しながら歩いたのでした。



つづく




背いたのですが、